第二編(昭和51年刊)第9章~第10章
第二編 第9章~第10章
山形県農業協同組合沿革史 第二編
編纂:山形県農業協同組合沿革史編纂委員会
発行年:昭和51年
発行:山形県農業協同組合中央会
第1節 上昇一途の信用事業と信連活動305
1)戦後10年間の農業金融政策の変遷305
2)昭和30年代前半の本県農協信用事業305
3)昭和30年代後半-農業の転換期・組合金融の新段階306
(1)新段階対応のための系統の方策(昭和36年)306
(2)全国1兆円運動にみせた本県の底力(昭和36年)306
(3)県信連が打ちだした信用事業強化方針(昭和37年)307
(4)第2弾,今度は2兆円貯蓄目標-新手の貯蓄様式:エコー,ドリーム,ホープ307
(5)信連との資金合議が奏効し貯貸率を改善(昭和38年)308
(6)信連田川支所現送係1,000万円騙し取られる309
(7)「全国2兆円貯蓄運動」(昭和39年)293
(8)新潟地震被害復旧貸付309
4)昭和40年代前半310
(1)農協貯金全国2兆円・山形県年度末300億達成記念大会開く310
(2)なせば成る貯蓄目標500億達成(昭和41年)310
(3)米作日本一・豊作をムダにしない貯蓄運動展開(昭和42年)310
(4)増産はしたが借金累増でオーバーローション,貯金目標達成ならず(昭和43年)311
(5)出来秋照準の貯蓄推進を年間推進に切替え,貯貸率ようやく落ち着く(昭和43年)312
(6)最悪の条件・減反と金利改訂の実施(昭和45年)312
5)昭和40年代後半-総3下の信用事業強化策(昭和46~48年)313
(1)脚色が変わった農協信用事業(昭和47年)314
(2)5年ぶりに上がった米価,本代金748億円となる(昭和48年)315
(3)総需要抑制・高金利政策,農協金融にも融資規制(昭和49年)317
(4)増産はしたが借金累増でオーバーローション,貯金目標達成ならず(昭和43年)312
(5)出来秋照準の貯蓄推進を年間推進に切替え,貯貸率ようやく落ち着く(昭和43年)312
(6)最悪の条件・減反と金利改訂の実施(昭和45年)313
第2節 急成長路線を歩む共済事業と県共連活動320
はじめに320
本県の農協共済-創業25年,貫録十分な共済事業320
1)昭和30年代後半321
(1)愛児共済の新設と建更5年ものの満期はじまる(昭和36年)321
(2)県共連創業10周年・新契約100億達成大会開く(昭和37年)321
(3)保有500億達成5か年計画,5年をまたずに3年目で完遂(昭和38年)322
(4)新段階に入った本県農協共済(昭和39年)322
(5)全国共済目標1兆円,本県目標200億円を突破(昭和40年)323
2)昭和40年代前半の本県農協共済324
3)昭和40年代後半326
(1)減反は減反,共済は共済と割りきる組合員(昭和45年)326
(2)総3運動下の共済事業(昭和46年)327
(3)昭和47年328
(4)昭和48年328
(5)昭和49年329
第3節 本県農協の販売・購買事業331
Ⅰ 本命の販売事業331
1)農政と販売の変遷331
2)昭和30年代後半-作ったから売る,から売れる生産を,に変わる332
3)昭和40年代前半-見ちがえるほど充実した販売体制334
4)昭和40年代後半-基本構想,総合3か年計画時代をむかえた販売事業337
Ⅱ しり上がりになった購買事業344
はじめに344
1)昭和30年代後半-農協体質改善運動から昭和40年まで345
2)昭和40年代前半348
3)昭和40年代後半-総3運動の基調となった
本県農業基本構想の「計画購買機能」350
総合3か年計画運動(一次46~48年)のなかの購買活動350
第二次総合3か年計画運動(49~51年)の展開と購買事業353
第二次総3期における購買推進上の4つの特徴355
第4節 整促から立ち上がって発展を続けた県経済連(山経)活動356
1)再建の苦難から発展の大道ヘ-新年度を飾る米売渡100万石突破356
〈全販・全購事業に討議白熱した組合長会〉357
〈県畜連との合併実現〉357
〈山経・畜連合併実現までの動向〉357
〈畜産体制で新スタートを切る山経〉358
〈農政の大転換・農基法施行下の経済事業〉359
2)昭和37年・長期計画初年度-畜産物市場大混乱・豚肉半値となり山経,緊急措置で応戦359
3)昭和38年-集荷米は急増したが,緊急輸送で倉庫経営悪化360
〈天童老野林に大規模畜産センターを建設〉360
〈肥料2法に代わる新法制定に集団施肥設計で取り組む〉360
〈農機具,農薬,生産資材,生活資材〉360
4)昭和40年代の山経活動-41年を基準年次に系統経済事業3か年計画(42~44年)を樹立推進361
〈山経は白菜指定団体となり,村山南部はぶどう団地として国の指定〉363
〈農産部を新設して青果事業拡大〉363
〈畜産センターの活躍-県内の外国びな60%を生産〉363
〈株式会社置賜畜産公社が誕生〉364
〈生乳生産者団体の指定を受けた山経〉364
〈ジグザグコースをたどりながら漸進した養豚〉365
〈県酪・単酪が生乳指定団体(県経済連)に造反〉366
5)経済事業推進大会を開く-総合3か年計画を強力に推進した山経369
〈第二次総3への取り組み(昭和49年)〉370
第5節 ローカル色豊かな庄内経済連(庄経)活動370
はじめに-庄経発足コメント370
〈昭和30年代前半-山居を買収した庄経,米・100万石突破でスタート切る371
〈米べらし基本法は米不足に急変,庄内米ピストン輸送〉371
〈突如,激震!39年6月16日,13時57分,新潟地震〉371
〈米づくり・集団栽培に賭けた庄内経済連〉372
〈庄内産米改良協会・稲作ビジョンを発表〉372
〈42年から逆転して満倉つづき,そして生産調整でまた逆転〉373
〈自主流通米と庄経・御三家の一つ庄内ササニシキ〉373
〈系統経済3か年計画への取り組み(昭和43~45年)〉374
〈米単作庄内に畜産の窓開く,伸びる豚など〉274
〈畜産飼料事業拡充5か年計画(昭和40年3月)〉374
〈庄内肉豚価格補償協会は誕生したが3年で解散〉374
〈補償から安定制度へ切替える(昭和43年6月)〉375
〈低乳価に抗議して庄内酪農農民大会を開催〉376
〈第一次総3期の畜産事業〉376
〈第一次青果物5か年計画から第二次拡充計画へ(35~45年)〉377
〈第二次青果物拡充5か年計画(41~45年)〉378
〈ドル箱庄内柿は曲がり角,好評を博すメロンと砂丘ダイコン〉378
〈田植機と収穫機の出現〉379
〈低毒性,排水銀農薬に転換,新防除基準を設定〉380
〈畜産・飼料5か年計画を策定推進〉380
〈第二次総3でさらに飛躍を期す庄経〉383
第6節 特異性を発揮する県青果連活動383
(1)昭和30年代後半-成長部門としての青果体制を着実に基礎固め383
(2)昭和38年-干ばつ・寒害・長雨被害を受けながらも生産・販売を伸ばす384
(3)昭和39年-買手市場時代を迎え,鮮度・食味・香味の三拍子で対応384
〈39年度に青果連が実践した販売改善対策の主要項目〉384
(4)昭和40年-果樹生産県連との協同と品目別の販売事情385
(5)昭和41年385
〈昭和40年代初頭を好調にスタート〉385
(6)昭和42年-本県青果対策の動き386
(7)昭和43年-県知事を本部長に「うまい果実づくり運動」を展開386
〈加工向けサクランボ,販売ルート大混乱〉387
(8)昭和44年-ブドウ革命,ジベレリン処理から10年388
〈自由化抗議大集会開く〉388
〈うまい果実づくり運動2年目,行政機能と農協機能に分けて推進〉389
(9)昭和45年-本県の青果物生産と販売対策389
(10)昭和46年-三重苦のなかから踏み出した「総3」の青果対策390
第8節 長い目でみる海外移住と県拓連活動406
第9節 総合農協に合流した県内開拓農協408
〈不毛の原野に挑んだ開拓農家も今や先進農家に〉408
〈開拓農協を解散して総合農協一本の組合員となる〉408